隈建築と楽茶碗

東京ステーションギャラリーで開催している「くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質」を観てきた。

もともと隈研吾さんの建築はあまり好みではないのだけれど、今回の展示を観てその理由がはっきりした気がする。

 

展示は写真や図面や模型などがたくさん並んでいて、しかもそれらが撮影自由。

さすが隈さん!

木組みのサンプルなどもまじかに見ることができて、展示自体はとても興味深く楽しく見ることができた。

とても勉強になったし、探求心やチャレンジ精神に尊敬も持った。

 

でもやっぱり好みではない。

で、改めてなぜ好みでないかと考えた。

 

ああそうか!と思ったのは一番最初の展示

中国は北京にある「Great(Bamboo)Wall」という作品を観たとき。

それは竹を構造材につかったという建築で、そのやり方はというと

節を抜いた竹に鉄骨とコンクリートを注入し固め強度を出すというもの。

これを見てうーん……と考えてしまった。

本物の竹である必要があるのか……

これは竹を構造材として使ったと言えるのか……

そこで、ふと思い出したのは、柳宗悦の「茶と美」という本。

その中で、千利休が考案した楽茶碗について触れられている。

 

楽茶碗は16世紀後半に作られ始めたもので、真っ黒で非常にシンプルな姿の茶碗。

装飾や凝った造形などを配した真っ黒のその茶碗は

シンプルがゆえにいつまでも眺めていられるような魅力がある。

でも柳はそれすらも「作為がある」として、良しとしない。

装飾を排することは「排するという作為」なのだと。

 

で、柳が「美しい茶碗」とするのは、茶碗として使われる朝鮮の雑器「井戸茶碗」

井戸茶碗は日常で当たり前に使われた食器を見立てて使うもので

そこには一切の作為がなく、それゆえ美しいとする。

 

ああ、そうか、と。

隈さんの建築には、隈さんが前面に出てきている(と僕は感じる)。

柳の言葉を借りれば「作為」にあふれている(と僕は思う)。

風景にならず景観の中に作品としてあり続ける(と僕には見える)。

そしてそれは隈さんという人と建築がセットで「作品」になっていると

僕には感じられてしまうんだ、と。

 

そんな「おお!そうだったのか!」のあった展覧会のお話。

 

 

 

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